2017年08月21日

応援というもの

昨日は息子の応援で大田市総合体育館まで行ってきました。高校一年生大会でした。

朝5時半に出て、帰ってきたのは23時半。。。まあまあ疲れましたよ。

結果は、団体、シングルとどちらも優勝ということで、親としても満足でした。
まあ、ライバル校も出てなければ、チームメイトのエースも出てないというものありますが。

それでも、今のレベルでは楽に勝たせてもらえないこともわかっていたのでね。
実際、シングルスは準々決勝からすべてフルセット。団体も決勝はフルセットと、かなり苦しい戦いでした。

結果は嬉しいのですが、何よりも嬉しかったのは、この苦しい戦いを制してちゃんと結果を残せたこと。
それは、楽勝では得られないことが多くあることを理解しているからです。

色んな条件が重なっての今回のことですが、すべてのことが彼の経験になったと思います。そして、私の経験にも。すべての人に感謝です。先生も、チームメイトも、対戦相手も、運営に関わった方々も。そして、保護者の方々。いろんな人に支えられて今があるということですね。


んで、タイトルにある応援ということについて、ふと思ったことがあったので書きます。
それは、応援をされると緊張していつものプレーが出来ないという人がいるということ。

確かにそれは、事実としてあるかと思いますが、なぜそういった心理状態になるのかと。。。

強豪校の試合をみればわかりますが、それは凄い応援です。その中でも、息子の高校はまあまあ凄い方だと思います。なので、私も声が枯れるほど声を出しています。それはアドバイスではなく、彼が自分らしいプレーをしてもらうために声を出します。「ヨー!」とか「サー」とか「チョレイ!」とか、卓球特有の声がありますね。応援もいろんな声を出しますが、すべてはそのプレー一つ一つを勇気づけるためです。

これを選手が理解できると、とても安心して力強く感じて、いつも通りの力が出せると思います。文字通り応援してくれる仲間や親が居るという事は心強いものです。

一方で、それがプレッシャーになる人はどうなのかと。

恐らく応援してくれる人の期待に応えないといけないという義務感に押しつぶされるのだと思います。

つまり、自分の為のプレーではなく、他者の為のプレーをしてしまう。もし、失敗したらどう言い訳をしたらよいのかわからないと。

これはとてもつらいことです。だって、仲間であれば、その結果を責めることはないでしょう。精いっぱい戦った仲間を非難するこもないでしょう。つまり、仲間であるという気持ちがない(もしくは薄い)という事なのではないかと。

信頼できる仲間に恵まれるということはとても大事です。仲間とは、親も、友人も、先生も含みます。もちろん、負けた時は叱咤激励もされるでしょう。でも、それは次のステップに進むために、自分のことを想って伝えてくれること。けっして責めているわけではないのです。


それを理解できたとき、人はより強く成れると思います。要するに周りに感謝という気持ちが芽生えるときです。自分は多くの人に支えられてここに立っていると時間できるときです。それは例え、声にならない応援だったとしても。

息子の試合において、私に出来ることは大きな声を出して応援することだけ。それぞれの課題があり、それぞれが乗り越えていくのだと思います。

応援が迷惑と感じること。それはとても悲しいことかもしれないです。すべての意味づけは自分がしているのですから。

という独り言でした。すいません。
posted by D.Tanaka at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | つぶやき
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