2019年09月12日

らしさって。。。

息子が今年高校を卒業するということで、腕時計を買ってあげました。娘は進学の時にペンを買ってあげてたんですが、同時に時計が欲しいという事でこちらも買ってあげることに。

ちなみに、二人に同じ予算を伝えたんですが、娘はほぼ予算の半分のものを。一方、息子は予算の1.5倍!こういったところも性格が出ますね!結局、予算内の商品に落ち着いたんですけどね。

ふと、なんで自分は子供たちに買ってあげようと思ったんだろうと自問しました。

よくわかりませんが、“父親らしいこと”をしたかったんではないかと。。。贖罪しないといけないほど父親らしいことをしてこなかったわけではないと思ってますが、胸を張っていいほど育児をしてきたわけでもありません。

この“らしい”ということに、自分なりに引っかかったわけですよ。

なにせ若い時はこの“らしい”という言葉を極端に嫌っていて、ことあることに反発していたように思います。

“子供らしい”“男らしい”“学生らしい”などなど。。。

「それはあんたの主観だろ!」と思っていました。そして、世間という言葉を使った押しつけだろうと。

でも、自分は誰に言われることなく“父親らしい”ことをしたいと思ったんです。

この“父親らしさ”は、あくまで自分の主観であり、他の人が思うそれとは違うかもしれないです。それは自分が思い求める父親像なのでしょうね。私の父親に対して、どうこう思う事ではなく、また、それと比べているわけではないですけど。私も満たされて育ったと思いますから。

“らしさ”って、他人に言う言葉ではなく、自分に使う言葉なのかもしれないですね。「○○らしくありなさい」ではなく、「〇〇らしくありたい」というように。「○○でなければならない」となると、結構苦しくなりますが、“らしさ”くらいだと、少し肩の力が抜けるように思うのは自分だけかな。

これからも“田中大介らしく”生きていこうと思います。

久々に哲学しましたw
では!
posted by D.Tanaka at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2019年05月06日

嬉しいお知らせ

今日はとても嬉しい知らせがあった。
5年ほど前に一緒に釣りをした人から連絡があったのだ。

来るもの拒まず、去る者追わずなので、たくさん一緒に遊んでいた人が突然来なくなったり、音信不通になったりしても、詮索はしないようにしている。人生いろいろ、事情というものがある。

彼も本当にいろいろあったようだ。でも、それを乗り越えて連絡してくれたのだ。5年も経て。

若いころは、他人の課題に首を突っ込んで、勝手に悩んだり、怒ったりしていたように思う。でも、今はそれは無くなった。世間一般から言えば、とても薄情な人になったと思う。でも、これは自分流の課題の分離。断捨離ともいえるかもしれない。

断捨離は、ただものを捨てるという事ではなく、その物に対する執着を捨てるということだ。だから、未練などあってはいけない。気分よくスッキリ捨てなくてはいけない。執着もないので、記憶にもあまり残らない。

自分は過去を都合よくねつ造して、今の自分が幸せに居られるようにしている。過去は今の自分が思い描いているものだ。過去に事実があるわけではない。事実とは変わることのないものだ。例えば、“自分は人間である”とか。それに対して、ほとんどの事は自分が意味付けているものだ。例えば、“このお酒は美味しい”など。そのお酒をまずいと言う人もいるだろう。それは自分の価値観なのだから。

「自分は人に恵まれなかった。特に先生に。」などと言っている人がいるとする。この時点では、“私は良くない先生に出会った”というのが事実だと思っている。でも、その後同窓会などで出会い、その時の先生の本意を知り、自分の勘違いを知ったとする。そして、「ああ、あの先生は本当は素晴らしかったんだ。」と現在の自分が思う。そうなった瞬間に、過去の“良くない先生”はいなくなり、自分の記憶はすり替えられる。そう、「自分は素晴らしい先生に出会っていた(のに自分が気付かなかった)」と。

つまり、過去は現在をもっていくらでも変えられるのだと思う。だから、トラウマなんてものはないと思うのだ。トラウマは過去にあるのではなく、現在の自分が作り出している要因に過ぎないと。

おっと、話が大きく逸れた(笑)

久々のネタなので気分が乗りました(笑)


人との出会いは、本当に一期一会。相手に対して申し訳ないとか、イケなかったとか思って悩んでいても、実は何も思ってなかったなんてこともしばしば。悩むより行動ですね。もちろん、時期やタイミングはありますけど。猪突猛進でなんでもやればいいという話ではないけどね。

自分が勝手に作ったコモンセンスに捉われない様に生きていたいと思う。今という時間は二度とないのだから。

人生というのは、そんなにドラマチックではないけれど、奇跡の連続だと思う。当たり前に感謝しながら生きていたいと思う。

これからも見返りのないお節介は続くんだろうな。それが自分らしさかも。

迷惑な人は言ってくださいね。すぐに謝りますから。心はこもってないかもしれないけど(笑)でも、それなりに反省はしますよ。いや、人並みには。

そうでない人は、これからもよろしくお願いしますね。

今日は、本当に幸せな日だ。
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2019年03月30日

ストロングポイントとウイークポイント

先日、全国高校卓球選抜大会を見てきました。まあまあ、いろいろと感じるところありましたが、強い子とそうじゃない子の差は何だろうとおもってみていました。

ふと思ったのは、強い子と上手い子は違うという事ですね。もちろん、トップクラスというのは、どちらも持ってます。強い上に上手いんです。

問題はその下の子たち。フォームは綺麗でプレーも綺麗。でも、勝ち切れない子。一方でフォームに癖があり、球も少し暴れてる。でも、最後には勝ち切る子。

強いか弱いかというのは、結果での話なので、勝った子が、負けた子に対して“強い”ということです。
上手いか下手かというのは、どちらかというと技術の話なので、勝ち負けはあまり関係ないんです。表現としては。

趣味で卓球をしている人で、試合には出ないという人がいます。試合に出ない(もちろんゲーム練習はあるんですが)以上、勝ち負けにはこだわらないという話になるんで、強いという事は目指してない(はず)んです。そうなると上手い人を目指すわけですが、この場合の上手いはミスをしないという事に尽きると思います。相手よりも1球だけ相手のコートに落とすだけで卓球は負けないのですから。

極論ですが、フォア打ちやラリーが一切出来なくても、相手よりも1球多く返すだけで試合には負けません。ホントのホントに極論ですが、これは強い人です。下手で強い人。

こんな人が勝つにはどうすればよいか。技術としては無いので、一つでも相手よりも多く返せる展開に持ち込むことが大事です。自分でゲームを作ることです。相手のゲームに合わせるような技量は元から持ち合わせてないのですから。なるべくシンプルで、リターンのボールもほぼ限定できるようなサーブとか。

このタイプの勝ち方は“わかっているけどやられてしまうパターン”です。その1点においてはとても上手く技術があるとも言えます。ただ、他の技術はないんです。総合的に下手な人です。局部的に上手な人。

技術が豊富な人は、“何をしてくるかわからないのでやられてしまうパターン”です。常に相手の読みを外してくるタイプです。台上のレシーブだけでも何種類もあるような人ですね。


何が言いたいのかというと、勝つために何をすればよいのかを分かっている人が強い人なんです。

これは釣りも一緒です。趣味で釣りをするという事なら、どんな方法でも、どんな大きさでも自分が満足できる事であれば、正解も不正解もないです。
ただトーナメントとなれば、話は違います。その人においての正解というのはありますが、基本的に勝った人が正解であり、2位以下は、それなりの不正解を含んでいるという事です。もちろん、運もあります。でも、勝人はそれをも味方につける力を持っているのです。

勝つための釣りと釣るための釣りは違います。例を挙げるなら釣れれば50UPという釣りと、何匹釣っても25cmという釣り。これを上手く組み合わせていくのが難しく、また面白いところなんですが、すべての釣りを完全にマスターする必要はないのです。一つでも良いので自分の得意な釣り、つまりストロングポイントを生かす釣りです。その釣りを特化していけば勝ちには近づきます。1戦毎に関しては、ですけど。

そして、自分が得意としていない時期やレイクなどそういった時はじっと辛抱の時です。自分のウイークポイントを知っておくことは大事です。

卓球と釣りの共通点を見つけるのがとても楽しいです。恐らくすべてのスポーツがそうなんだと思います。

自分のストロングポイントはどこなんだろうか。。。もう一度、初心に戻って釣りを見直してみようと思う。
posted by D.Tanaka at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2018年05月01日

昨日の続き

もう少し掘り下げて考えます。

人は比較対象があって、価値を見出すことが多いです。例えばテストで100点と取っても、全員が100点だったら。。。価値が下がる気がしません?でも、実際は100点なので何も変わりません。

自分の収入があり、それで十分な生活が出来ていれば、何も問題ないはずです。でも、平均年収を気にする人が居ます。それってなんでしょうか。

つまり、それそのものに価値を見出しているのではなく、比較があって価値を確認するという作業をしていることが多いという事です。

「このラーメンは、あの店よりも美味しいわ。」とかね。

“世界で一つだけの花”ではないですが、オンリーワンだという事を、何が何でも大事だというつもりもありません。そんなことを言っていては、そもそも競技という事が成り立ちません。人としての価値はオンリーワンで良いですが、競技の結果はナンバーワンを目指して行くものです。混同して考えてはいけません。

昨日、“理想の自分と比べて精神的に負ける”というようなことを書きました。これは卓球に限ったことではなく、子供や妻、夫などを罵る人も良く使う手段です。

「みんなこうしている」とか「他の旦那さんはみんなそうだよ。」とかとか。。。でも、実際にそんな人がいるのかというと、実はそんな人は実在しておらず、言う側の理想の人が対象になっていたりします。空想の理想の人物がライバルなので、これは絶対に勝ち目はありません。勝てない勝負をさせられているわけですから、これは苦しいものです。

この形を、自分の中で自分の理想と戦わせて、自己嫌悪に陥っていくというのが、試合におけるメンタルの崩壊ではないかと。同じ戦術に拘り続けるとか、自分善がりな理論で変化させていたり。。。相手がだれであっても関係ありません。勝手に自滅していくのですから。相手はほとんどパーしか出さないのに、一生懸命にグーを出し続けるジャンケンのようなものです。勝ち目はありません。

発想の転換が大事なのですが、グーからパーにするかチョキにするかは1/2です。でも、相手を見て判断すればどちらにするかという判断は、もっと良い方向に行くと思います。相手を見て「パーの割合が多いから、チョキの方が勝ちやすいかも。」と仮説を立てられればしめたものです。ただし、ミスなくチョキを出せるかどうかは練習次第です。練習抜きでは語れません。

ここでもう一つ嵌ってしまう事があります。それは「自分はちゃんとチョキが出せるはずなのに・・・。」というもの。実際には練習不足や才能不足(これは書きたくない。いや、認めたくないw)で、チョキが出せないのに、自分は出来ると信じていて精神的に壊れていくものです。出せないと自分で理解すれば、せめてパーを出していて、勝機を伺うのがベターです。

全く卓球をしたことのない人に、YGサーブを出してみて!と言って、ミスをしたとき。その人は、苛立って怒り出すと思いますか?ほとんどの人は「初めてだから出来なくて仕方ない。」と考えると思います。これは“出来ない自分”を認めているからです。つまり、卓球における理想の自分がそこに存在していないのです。しかし、少しばかり卓球をやると、出来ない自分に腹を立てます。出来ている自分がイメージ出来るので。いや、練習では出来ていることが多いのですから。でも、試合と練習では大きな違いがあります。試合において出来るかどうかが大事な事なのですから。

結局のところ謙虚になるということに尽きるのですが、自分の身の程を知るという事が大事だと思います。でも、決して自分を卑下する必要はありません。必ず勝つための方法があると思います。奇跡は起こすものです。その可能性は低くても土俵の上に立っているのであれば、勝つチャンスは必ずあります。言い換えれば、負ける可能性の高い手段を切り捨てることです。そして、腹をくくって(自信をもって)その手段をやることだと思います。迷いは禁物!

そうしていると、今度は相手が「いつもはこれで勝てているのに」とか「この程度は出来るはずだから」と、理想の自分と戦い始めたら、これは勝機です。一番自信のあるプレーをミスし始めたらこっちのペースですね。まあ、こんなに上手くいくことはなかなか無いですが(笑)

自分に起こることは、相手にも起こる可能性があります。自分が緊張するということは、相手も緊張していることでしょう。じっと耐えて勝機を待つことは大事なことです。勝ちを急いではいけません。

思ったままにダラダラと打ち込んでいるので、話がまとまってませんが、まとめながら書くと大体無難なものになるので、見直しなく書きました。殴り書きのメモのようなものです。もしかしたら矛盾もあると思います。でも、アイデアなんてそんなもの。書きながらじっくりと醸していこうと思います。

そして、行動に反映出来れば、とてもすごいことになりそうです。まずは、釣りと卓球で自分に試していきます。今のところ、卓球は好調です(笑)相手を見ることで、勝負どころが分かるようになった気がします。もちろん、市民戦の底辺レベルの話ですよ(笑)

では!
posted by D.Tanaka at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2018年04月30日

自分を知るには

昨日、一昨日と出雲に行っていました。息子の応援です。結果は、団体こそ2位ですが、ダブルス、シングルと本戦出場を逃すという結果になりました。私自身、とても落胆しましたが、落ち着いて考えてみればこれが今の実力です。相手も努力しています。ここからどう這い上がるかが大事な事ですね。一緒になって落ち込んでいても仕方ないので、いろいろと考えてみました。

今回の(今回も)一番の敗因は、いつものプレーが出来てないこと。これの原因は何か。やはり、相手があるスポーツなので、相手に呑まれてしまって、自分を見失うのかなと。だから「自分のゲームを!」とか「落ち着いてしっかり!!」という応援をしてきました。でも、ちょっと腑に落ちない。。。

ふとテレビを見ると、体操で新旧交代というか、内村選手が11連覇を逃すというニュースをしていました。

あれ?相手が居ないスポーツでも自分を見失う事があるのかと。。。そりゃ、緊張しますからね。当然と言えば当然だ。

そこで、ひとつの考えが出てきました。それは、自分を見失うという事は、「いつもの自分と違うと感じること」からかもと。。。でも、考えてみれば体や心のコンディションは常に違うのだから、同じであるはずはない。

「いつもは出来たのに。。。」とか「こんなミスをする自分じゃない」とか、そんな風に見失っていくのではないかと。これは相手を見ているのではなく、自分を見ているから起こるのではないかと思ったのです。

つまり、理想の自分との比較で、現実の自分に失望することからメンタルは崩壊していくのではないかと。

試合において、大事なのは今の状況における自分を認めること。対人競技であれば、相手に対して自分のプレーはどうなのかを知ることではないかと。例えば自分のフォアドライブが全然走らないと感じていても、相手がそれをミスしているのであれば使いべきだし、最高のドライブをカウンターされて苦しくなるなら、へなちょこでバックドライブの方が有利な展開になることも実は多くあることです。

もちろん、試合のレベルはいろいろあるなかでの話であり、すべての状況で当てはまるものではないと思います。

そう考えるなら、選手に対して有効な応援は「相手をよく見て!」かもしれません。

相手を観察し、その有効打を考えることで、相手に合わせたプレーが出来る。つまり、自分は無色であり、相手のカラーに合わせて色を付けると。カメレオンのように。それが、“理想の自分と比べない”ことかもしれないと。。。理想の自分なんて、この世には居ないのですから。

もちろん、どの色にでも出来るというのは、たくさんの練習の上に成り立つのは言うまでもないです。メンタルだけで勝てるほど甘くない世界はあります。

そう考えれば、釣りにおいても同じで、今日は巻く感覚があると思えば、バスの多くは反応しなくても、巻き続ける方が結果が出ることがあります。魚に合わせるのが基本中の基本ですが、私は自分のリズムというのをとても大事にしています。結局のところ、湖中のすべての魚を釣るわけではないので。また、大きな魚ほど気まぐれというか、同じパターンに当てはまらないことが多いようにも思います。まあまあ、コアな話なので、理解しがたいこともあると思いますが、自分のリズムではない釣りをしても、結果としてばらしたり、ラインブレイクしたりしてしまって試合が纏まらないことがあるんです。釣ったからこそ迷ってしまうとか。。。

釣りと卓球をセットで考えるのが、今の自分のテーマなので、どちらも理解できる人じゃないと良くわからないブログになってます(笑)

ということで、これはあくまで仮説なんですが、自分を見失わない為にということを書いてみました。明日には違う事を言っているかもしれません(笑)
でも、自分を客観視するというのは、矛盾を孕んだ言葉だと思うのです。それを可能にするのは他人との比較だと思うのです。他者を見ることで、自分を見失わない・・・というか、自分を知るということ。

結構、よいアイデアだと思うんですが、どうですかね。

では!
posted by D.Tanaka at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2018年01月13日

忘れられたしめ飾り

今日、会社の持ち船(2隻あり)に乗ると、運転席の前にしめ飾りが放置してあった。
この船は、お正月後に使ったのは8日。私はその日は休日。
なので、誰が外したのかを聞いた。「僕が外しました。」と若い子が言ったので、「これじゃただのゴミになっちゃうよ。」とだけ伝えた。返事はなかった。

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詳しく説明する気にはなれなかった。
仕事上、業務を伝える責任はあると思うが、こういったことを学んでないのは、仕事上の事ではなく、育ちの問題だと思うからだ。もちろん、それを伝えることもある。それは、自分の都合。伝えたい人と、そうじゃない人がいる。また、そういう場面とそうじゃない場面。なんでも教えてもらえるわけじゃない。だから、なんでも教えるわけでもない。先輩から伝えられることの多くは、意味ある事であり、次に繋がっていくものだ。それはそんなに価値のない、安易なものではないのです。

そんな彼の問題はさておき、なぜこうなるのかを考えた。

それは、彼はこれを“しめ飾り”だと思わず、“藁と草と昆布”だと思っているんだろう。
しめ飾りは、お正月の縁起物であり、船につけるという事は、今年一年の無事故を祈願するものだと思う。(それ以外もあり)そして、神様に留まっていただく“お社”のような願いを込めたものだ。

神事ごとが蔑ろになっている昨今では、こういったことを口うるさく伝えることも少ないだろうし、企業として行う事も少なくなっているように思う。でも、海運業ではまだまだしっかりとしている企業も多い。やはり、自然の力には勝てないことを知っているから。人間ではどうにもならないことは、神様に縋るしかないのだと。それが、潔く諦めることに繋がり、身の安全を守ることに繋がるのだから。

目の前の物質をどう意味づけるかは、その人が決定している。
だから、その人が私にどう思われるかという結果も、その人が決定している。
全ては自分の決断で、世の中は動いているという事だ。

今日は、少しの苛立ちと、大きな寂しさでブログを書きました。そして、未来への大きな不安が残りました。

大事なことが沢山失われていきます。私が歩けなくなるころには、どんな日本になっているのだろうか。
posted by D.Tanaka at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2018年01月11日

支配欲に溺れる

ここ数日、会社のことを考えて悶々としていました。

会社と組合と社内の取りまとめをいろいろとしているうちに、自分が何をどうしたいのかわからなくなっていました。

そうなると、全体を見ることが出来なくなり、自分の意見を通すことが目的となったり、その場を取り繕うような言動になってしまいます。

出来ることはすればよいし、出来ないことはさっさと諦める。時間が必要な事は待てばよいし、時間で解決できないことはさっさと諦める。

結局、今の課題は、現時点で解決が出来ない言う事で、流れに任せることにします。私は経営者ではないので。

立場の違いというのはとても大事なことで、良かれと思っていても、やって良い事(やった方が良い事)そうじゃないことがあります。それは意見として正しくても。

自分の思い通りになるものは、そう多くなく、自分がそれにどう対応していくかが大事なのだと思います。その中で、周囲が自分の存在や意見を大事に思うようなら変わっていくのだと思います。

それに不満を思うようならば、その場を離れるか、意味付けを変えて過ごすのがよいだろうな。

周りに対しての支配欲は、自分は見失う。反省です。でも、突っ込んでいったから気付けたこと。

今年は、もう少しのんびりしたいと思っています。自分が作り上げた幻想を少しづつ溶かしていきます。

posted by D.Tanaka at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2017年11月23日

調子に乗って心理学(笑)

釣りネタが乏しいので、今日も心理学。

いや、これが心理学の分野なのかもわからない。いわゆる素人のつぶやきなので、○○心理学とか、○○派とかいうのもわかりません。ただ、自分の考えの軸は、前から書いているようにアドラー心理学であり、それを大介流に解釈(都合よく)しているものであり、本流から見れば、かなり逸れていると思われます。

と、言い訳したところで好き勝手書きます。

フロイトは、性衝動というものに着目し、いろんな理論を言っております。生物においての性衝動、いわゆる性欲は種の発展に直結するものだと思うので、それ根源とするのは自然なものかもしれません。それが生き物であるなら。

私は人間とその他の生物は分けて考えているので、人間の行動のベースが性衝動であるというのはいまいち理解しかねます。←もしかしたらフロイトが言いたいこととか違うかもしれません。

んで、最近私が考える欲求の根底は、「支配欲」ではないかと思うんです。

あらゆるものを支配したいという欲。

相手に、自分の思い通りになって欲しいと思う事。例えば、子供に幸せになって欲しいということ。これはわかります。だから、公務員になって欲しいとか、相手の収入はいくら以上だとか。。。ここまでくると、相手を支配していると言えると思います。

この支配欲はどこから生まれてくるのか?と考えた時に、もしかしたら赤ちゃんの時ではないかと。赤ちゃんが泣くことで、ほとんどの場合でその場を支配することが出来ます。それを繰り返していくうちに学んでいくのではないかと。泣くという行為は、ある時期から戦略的に使われるようになります。物を買って欲しい時か。それは親を支配しようとしているのではないかと。

言葉で伝えることで、相手を説得出来ればよいのですが、それが出来ないときは泣くという行為で勝負するのです。

大人になると、さすがに泣くという手段はなかなか使えないので、今度は怒るとかキレるとか、そういう感情を利用し始めます。その目的は、相手を支配すること。つまり、根底で泣くことと、怒ることは同じ幼稚性を持っていると思います。

あれ?動物は??という事になりますが、私が考える支配欲は人間特有のものではないかと思っています。それも、一般的な家庭での話。悲しくも世の中には、あまり親に世話してもらえなかった子や、愛されずに育ってしまった子供も居ると思います。そういう場合は、少し違った形になるのではないかと思います。しかし、この学習する欲、つまり、後天的な欲は見逃せないと思います。性欲のような先天的な欲とは、別種のものだと思います。もちろん、性欲も一線を越えていくと、自分を満足させるものとなり、それは支配欲を同時に満たすものになると思います。

日本人はコレクトするのが好きだという話もありますが、私の周りでもロッドを揃えたり、卓球グッズを統一メーカーで揃えたりする人が多いです。コレクションのコンプリートと同じように、ある種の支配欲が働いているのでは無いかと思いますが、どうでしょう?


この支配欲は、さまざまなところで問題を起こすことがあります。相手や場面を思い通りにしたいという気持ち。そして、それが満たされないことで生まれるフラストレーション。

「なんでわかってくれないかな。」とか「それは常識でしょ!」とか「空気読めよ。」など。

相手に勝手に期待して、不満を述べる。


と、ここまで好き勝手書いておきながら、オチがないんです(笑)この考えが全く纏まってないので。

なので、私も常に自分の支配欲に悩まされながら生きてます。ただ、そのたびに「自分勝手な支配欲で不満をもってないか?」と自分に問いかけています。良いか悪いかわかりませんが、泣いたり怒ったりすることはとても減りました。その分、淡々としているように思われます。でも、心の中では結構情熱的なんですよ(笑)

ということで、ちょっと尻切れトンボな話でした。

おしまい。
posted by D.Tanaka at 21:03| Comment(2) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2017年11月21日

ストレスは蓄積しない

先日の忘年会で「最近、大介的心理学書いてませんね。好きなんですけど。」と言われました。
社交辞令かもと思いながらも、気分良くなったので、久しぶりに書きます(笑)

さて、「ストレスは蓄積しない」という話です。もちろん、自分の考え方であって、真実とかそんな話ではないです。

ストレスという言葉は、物理からきた言葉であり、金属疲労のような感じだと思います。なので、こういう使い方でいうなら蓄積します。私が言いたいのは、心のストレス。まあ、どちらかというとストレスというもの自体を否定しているのですが・・・いや、ストレスが溜まるということを否定しています。ストレスは溜めるものであって、溜まるものじゃないと。まあ、この話はまた次回にでも。。。

んで、何かを見たり、されたりで、ストレスを溜めていく。そして、それが積もりに積もって爆発すると。

例えば、犯罪とか、暴力とか。「ストレスが溜まって・・・」なんというのは良くある話。ニュースでも結構聞きますね。

私は、まずそんな言い訳は聞きたくないし、聞いたところで解決もしないから、そういった言葉は無視です。原因としてストレスがあり、その結果として犯罪があるという図式を否定します。
犯罪を犯したいという目的があり、その手段としてストレスを溜めていくという図式だと考えます。

本人にその自覚が無くても、そういうことです。

そして、ストレスを溜めていくと書いたけど、実際には溜まってなくて、その機会をうかがっているだけです。タイミングが良ければすぐにでも実行します。溜まったことにして。キレやすい人とかいうけど、勝手にキレているだけです。他の人が挨拶というコミニュケーションツールを使うかの如く、キレたり、暴れたりというコミニュケーションツールを使っているだけです。それはツールを知らないか、使い方を知らないだけ。

話はちょっとずれるけど、「ストレス解消方法」とかありますよね?あれも私は否定です。何かの問題があり、それをストレスと感じるなら、その問題を解決するしかないからです。いくら大声で歌っても、魚釣りに行っても、そのストレスの原因は解消されません。もうひとつは、その問題は解決しないのものと理解することです。簡単にいうと"諦める"とか“時間に任せる”とか。今時点での解決を放棄します。そのどちらかかな。まあ、好きな釣りとか卓球をしているうちに、いろいろと考えたり、悟ったりで、解決放棄に向かう事もあるので、一概に無駄とは思いませんが、直接的な解決にはならないと思っています。

まあまあ、話がまとまらなくなってきましたが、要はストレスなんていう偶像に支配された生き方はもういらないんじゃないの?ということ。こんな言葉遊びを言い訳にされても納得できるもんですか。だったら、自分も最初からストレスなんて言葉は必要ないです。形の無いものに、言葉を付けると、それで意味を持ち、形になってしまいます。もしかしたらどこかの原住民にはストレスというような言葉はないかもしれません。その世界にはストレスという概念がないのです。そういう世界があるとしたら・・・・。まあ、ストレスという言葉が生まれる前の世界や古い日本にはもちろんないわけで。

医者が「ああ、風邪ですね。」って言った時点で、やぶ医者決定みたいに、ストレスなんて便利な言葉(医者や問題を起こしたい人にとって)は、もう放棄して生きようと思っています。

でも、昔のブログとか見たらたぶん書いているでしょうね。私も(笑)

でも、過去は過去。これからはストレスフリーな生き方をしたいと思います。あ、ストレスフリーという言葉自体が、ストレスを認めているのか。。。言葉って難しいですね。

幸せに生きるために、つまらない概念は捨てていってもいいんじゃないですか?という話でした。
ちょっとわかりにくいですかね。久しぶりに書くのでまとまりませんでした。ごめんなさい。
posted by D.Tanaka at 23:19| Comment(2) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2017年08月22日

TVから

久しぶりにテレビからの言葉で痺れるものがあった。

「不幸せに生きる方法は簡単だけど、幸せに
生きるのは難しい。幸せは、いつも後で気付くものだから」

なんとなくこんな言葉。

今が幸せだと気付かない人は多いのかもしれない。

幸せの定義も人それぞれだからね。

だったら、今が幸せだと思い込んでみてもよいと思う。

そうすれば、過去は全て変わるから。

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2017年08月10日

本気の言葉は人を勇気付ける

久々に心理学。

相手の事を思っても、思っていなくても、偽りの言葉は心に響かない。

一時は嬉しく思い、一時は安心したりする。

でも、それが自分が成長する切っ掛けにはならない。

たとえ、それが貶されるような言葉であっても。

目の前のすべての事は、自分が意味付けているのだから、その言葉や行動そのものには意味はない。

自分がどう感じるか。どう理解するか。

すべて空であると言うのはそういう事なのかも。

今の私があるのは、本気の言葉があったから。

本気の言葉を掛けてくれたすべての人に感謝です。
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2016年08月24日

自分の価値には気づきにくい

本当はPBT第四戦の話を書きたいんですが、じっくり時間が取れないので、昨日の出来事を。

昨日は、近所の熱帯魚店のお兄さんと川へ行ってきました。

このお店は、うちのウナギの餌をちょくちょく買いに行くのですが、そこで淡水魚トークに華が咲き、小一時間くらい話すこともざら(笑)自分もこういった話をできる人がいなくて楽しい時間を過ごさせてもらっています。

私はただの魚好きですが、相手は本職だし、なによりその友人関係はプロといっていいほどの人達。どこにあれがいるとか、ここにこれがいるとか。。。まあ、具体的な場所は、本当にシークレットらしく、なにやら変な雰囲気の話ばかり。

そして、当然のように「最近固有種が減ったのは、バスのせいで。。。」となります。さすがに私も「それはないですよ。バスと魚は混泳している姿たくさん見ますから。もちろん食べますけど。」と当たり前といえる話。向こうも納得してくれ、また話が長くなるという感じです。

そんななかカワアナゴの話になり・・・・なかなか見つからないと。「え?普通にいますよ。」と私。それから、イシドジョウやアカザなど。。。そんな感じで「今度行きましょう!」ということになった。

このお兄さん、まあまあキャラが濃い(笑)そして、好きなことに一直線!行くと決まったらプッシュが凄い(笑)先日のPBTの大会中も電話かかって来ましたから!ということで、昨日言ってきたわけです。

30分ほどしか時間がなかったのですが、アユ、フナ、チチブ、オイカワ、テナガエビ、ウナギ、バス、ボラ、キビレ、スジエビ、コイ、など数十種類を確認。もちろん、岩陰からこっそり顔を出すカワアナゴも。これには二人とも感動!!!いや〜楽しい時間でした。

私はただの魚好き。だから、魚を探すことに努力もしてなければ、頑張りもない。好きだからしていること。しかし、相手は捕獲して売るわけではないけど、その道のプロ。

「これは凄いです!!!!本当に素晴らしい!!!!いや〜感動です!!!!」と、家に帰っても感謝のメール。

自分の何気ないと思っていた知識や行動が、こんなにも他人を喜ばせることができるとは思っていませんでした。その価値には自分では気づくことができなかったわけです。人と出会うことで気づかせてくれること。本当に大事なことですね。

バスへの誤解も解け、今度も行きましょうと挨拶をしました。

身近な川の素晴らしさを改めて感じた一日でした。
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2015年11月27日

病院巡り

思うところあって、2,3と病院を回って気になるところを見てもらった。

幸い脳の方は問題ない。最近はMRIもすぐに取ってくれるし、料金も1万円でおつりがくる。

溶連菌の検査も、問題なく残っては無いということだ。薬が効いて良かった。

ただ、指に出来た疣は、液体窒素で凍傷のようになって経過待ちだし、足のガングリオンらしきものも急は要しないということだが、後日見てもらうことになった。

この歳になると、いろんなところにガタが来る。けれど、交換は出来ないので上手く付き合っていくしかない。アトピー性皮膚炎も酷くはないものの、ずっと付き合っている。季節の変わり目には、大体悪さをしてくれる。

まだまだ、くたばるわけにはいかないので、いろいろと足掻いて行こうと思っている。運命というのは変えられないかもしれないが、それでも最後まで抵抗して足掻くのが人間らしいのではないかと思う。いや、自分らしいのではないのだろうか。

体の事だけではなく、釣りも、卓球も、仕事も、何もかも。

"仕方ない"なんて思わないで、自分に出来ることをやり続けていきたい。

もう11月も終わろうとしている。めっきり寒くなったが、私はこの季節が何よりも大好きだ。

刹那的な季節が好きなのである。だからこそ春の訪れが恋しいと思えるのだから。

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2015年10月28日

事実を受け入れるのは辛いのか

今日も息子と卓球をしてきた。もちろん、コテンパンにやられる。勝負で負けるのは良いとしても。彼の練習にもならないのは、とても申し訳ないと思う。親として十分な練習環境を作ってあげられないことを悔しくも思う。

でも、今自分に出来ることは、自分がスキルアップして、彼の練習に付き合えるような質の高いプレイヤーになることだ。その為にすることは、すべて自分の事である。

練習の帰りに「ラバーが合わないのかな?」と問うてみた。すると「どのラバーでも一緒。入るような打ち方になってないから。」と言われた。真実の言葉である(笑)これは自覚はあるのだが、そうは認めたくない部分なのだ。

でも、考え方を変えれば、打ち方を変えるだけでスキルアップ出来るのである。これほどシンプルなことはない。駄目な原因が明確になれば、悩む必要はなく、その練習をすればよいのだから。

勉強が出来ないという子供がいる。「足し算が出来ない。」という子と「算数が嫌い。」という子は全く違う話だと思う。まして「何を勉強したらよいのか分からない。」という"何が分からないのかが、分からない"というところまで行ってしまうとかなり大変なことになる。

まず"わかる"という部分、"出来る"という部分を自覚しなければいけない。その上で、次の作業への繋がりを上手くして、次の作業を"出来る"という風にしていく。

卓球って、サーブだけスペシャルでも勝てないし、レシーブだけスペシャルでも勝てない。そして、どれか一つだけスペシャルになってから、次に進むようなやり方では駄目だと思う。これは釣りも一緒で、キャストはスペシャルだけど、フッキングがダメとかじゃあ話にならない。ただ、順序はある。釣りはキャストから始まるし、卓球はサーブから始まる。これは事実だし、キャストは魚が居なくても練習出来るし、サーブは相手が居なくても出来る練習だ。

話を戻して、自分のダメな部分を指摘されると、とても辛い・・・と一瞬思ってしまう。でも、それはステップアップのヒントを貰えたという事。相手が子供であっても感謝しなければいけないことなのだ。それに、親のダメなところを的確に指摘できるなんて、まあ素晴らしい能力だなと。自分は出来なかったように思うから。

何を書いているのか分からなくなってきたが、要は「道具に逃げないで、ちゃんと努力しなさいな。」と自分に言い聞かせる為に書いている(笑)
頭の中でモヤモヤっと考えていては、結局何も生まないし、何も考えてないに等しい。頭の中のモノは、外に出してこそ整理される。アウトプットすることがとても大事。情報社会だからこそ、インプットはとても簡単に出来る。でも、それをアウトプットする=表現することが、とても大事なことだと思う。

さあ、明日はゆったりと釣りを楽しんで来ようと思う。気になることをすべてやろう。欲張って生きていこう!

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2015年10月10日

相変わらず忙しくさせて頂いています。

タイトルの言葉は、「忙しくてやってられない。」ではなく、「おかげさまで忙しく(仕事を)させて頂いています。」という感謝の言葉を含んでいると思う。

父の葬儀から、何かとバタバタしており、今日も鳥取に日帰りです。本当は病院や役所など、いろいろ回らないといけないのですが、これは逆に平日でないとダメなので困ったものです。

少し話は変わって、昨日は息子の新人戦でした。おかげさまで団体は目標だった優勝をすることが出来ました。三年生が居なくなって戦力はダウンした中での優勝は、子供たちの自信になったと思います。私もたくさんの勇気をもらいました。

しかし、個人戦では決勝まで行けましたが惨敗。市レベルの大会で強い子がいるというのはとても感謝しなければいけない事です。ところが、その決勝では自分の思い通りに行かないからか、久しぶりの"はぶて"(ふてくされ)モード。相手を愚弄するような行為は無かったですが、明らかにゲームを捨てていたというプレーが見えました。当然、帰ってから説教でしたけど。

結局のところ、何がダメだったのか?というと、相手があっての競技なのだから、まずそのことに感謝しなければいけない。そして、その場を楽しまなければ。全力で戦っていれば、敗戦でも清々しく思えるものです。そして、そうでなければ次の反省点も見つかりません。次に繋がらないことが一番の問題なのです。失敗は成功の基と同じように、敗戦は勝利への基にならなければいけないのです。また、戦ってくれた相手に対しても全力であるべきです。自分が手抜きしてもらって嬉しいのかということ。もし、そうであるならとても幼いと言わざるを得ません。



仕事に追われる(と思っている)人は、ほとんどがその仕事を楽しんでないと思う。趣味or仕事という切り替えも大事ではあるけど、どちらも自分の人生の一部。自分の人生の中で、楽しめてない時間があるなんて勿体ないと思いませんか?仕事を楽しみ、趣味を楽しみ、育児を楽しむ。同じことをしていても、それがストレスになる人と、そうでない人の差。仕事で過労ってありますが、釣りで過労って聞いたことないです(笑)疲れるのは確かなんですが、それは肉体的なもので、心は満たされているからすぐに回復するんですよね。

釣りのプロと言われる人は、ほとんどがものすごく忙しくタイトなスケジュールです。しかし、疲れたなんて顔はしてないし、何よりもオフになると釣りに行きます(笑)

とても大事なことです。楽しい卓球のはずが、大一番の決勝で楽しめないなんて勿体なすぎる。バストーナメントでいうクラシックまで駒を進めて、ふてくされているようなものです。

とても変な言い方ですが、私は父の葬儀から、初めての経験ばかりでとても楽しんでいます。喪主という大役も任せてもらえました。そして、まだまだいろんなことをさせてもらえます。

ということで、今から準備して出発します。もちろん、鳥取に行くのですから"ついで"というのもたくさん楽しんできます。

では!良い日を。
posted by D.Tanaka at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2015年09月18日

病気療養中。。。

GFFOの盛り上がりも冷めやらぬ日々を過ごしています。時間が経てば経つほど、大きなイベントをやったんだなと思う次第です。一方で、反省点も多々出てきております。そして、来年のプランも。

まだまだ、報告書など作らなければいけないのですが、昨日からどうも体調がおかしい。。。
今日、病院に行くと「溶連菌ですね。」と言われました。飛沫感染が主だという事ですが、どこでもらったんでしょうか。とにかく家族にうつさない様にしなければと思います。

さて、ネタもないので先ほど感じたことを綴ります。


朝から体が痛く、動きたくない気分でしたが、病気が悪化するといろんなところに迷惑も掛かるので病院に行くことにした。
病院はそんなに遠くないので、徒歩で行くことにした。微熱(37.3℃)があるのもあったが、なにより目の焦点が合いにくいように感じたからだ。車は便利な乗り物ではあるが、使い方を誤ると凶器になるのだから。少しだけ無理をすることで、加害者にならずにすむのであればと、迷わずにこちらを選択した。

しかし、歩いてみると今の体には結構しんどい。距離で500mほどだと思うのだがとても遠く感じる。そして、歩道の凹凸や、段差が気になる。きついと感じるほどではないが、自分よりもつらい立場の人には尚感じることだろうと思った。こういった体になってみないと気付かないことは多くある。せっかくこんな立場になれたのだから、治るまでの間はそういった目線で物事を見てみたいと思った。


帰り道、交差点で目の前の車がクラクションを鳴らした。一台前のバイクが止まったからだ。一時停止の場所なのかわからなかったが、車はクラクションを鳴らして過ぎ去っていった。バイクのおじさんはきょとんとした顔をしていたが、しばらくして「バカ!!!」と叫んだ。その子供のような振る舞いに少し笑いそうになったが、なんとも言われない気持ちになった。

どちらが悪いとかではなく、お互いに自分の感情だけをぶつけている。過ぎ去ってしまっては、クラクションの真意もわからない。それに「バカ!!!」では、車にも伝わらない。その場に車は居なかったわけだし。そうなると、この当事者の二人だけで済むような問題であるはずが、通りかかった私まで不愉快に感じることになっている。これはどうしたものかと。。。

自分の振る舞いをもう一度考えてみようと感じる出来事だった。何気ない一言や行動で、周りを不機嫌にはさせてないかと。そして、喜ばれるようなことをしているかと。仕事も子育ても、釣りも卓球も、自分一人で出来ることではない。だからこそ、自分の行動の目的を見誤らないようにしたいと思う。

病気で気持ちが弱ると、こういったことも気付くんだと、改めて感謝。たまにならば病気もしてみるものだと思いました。でも、やることは山ほどあるので早く治します!

では。
posted by D.Tanaka at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2015年07月17日

悩むはアピール

先日、会社の後輩との会話。

私「どうした?元気がないが。」
後輩「悩みがあるんです。」
私「ふ〜ん・・・余裕あるね。」
後輩「え???」

悩みって、行動を伴わないので、悩んでいる状態だと状況は何も変わらないんです。考えているというのとは、まったく違う状態だと私は思っています。例えば、テストで難しい問題を解くとき。方法が分かっている人は、どのやり方で解くか?と考えます。それは、とてもワクワクする瞬間です。釣りにおいても、次にどこが釣れるか?何が良いのかを考えて、移動する時はワクワクするものです。けれど、悩むとなると・・・。まず、問題は解けそうな感じはしませんし、魚も釣れそうな感じはありませんね(笑)

でも、悩んでいるというのは、あんまりポジティブなイメージがないんです。マイナスのベクトルを持った言葉は、あまり自分に当てはめて使わない方がよいです。

私が思うに、悩んでいるというのは、周りに対するアピールを多く含んでいて、「私がこんなに悩んでいるから優しくして」とか「こんなに悩んでいるのに、あなたは平気なの?」といった、対人に向けられたものが多いように感じます。

もし、ジャングルで生きるか、死ぬかという状態であるなら、悩むという事をするか?ということです。考え、行動です。そんな余裕はありません。
落水して溺れる!!って状態で、悩みますか?そんなことをしていては死んでしまいます。

言葉のセレクトの問題はありますが、私は悩むという言葉を、こう意味づけしています。なので、自分が悩むようなことになったら「ああ、まだまだ甘えているな。もっと考えて、行動!」と戒めています。ということで、私にはたくさんの課題、問題はありますが、悩みはありません。もし、悩んでいるとしたら、それは「悩んでいる私もカッコいいなぁ。。」とナルシストになっている時です。自己陶酔な状態なんで、ほっておいてください(笑)まったく生産性の無い状態です。

もっとも、考える前に行動をしたほうが良かったケースが多いのですが、なんといっても臆病者なので時間がかかります。それを埋めてくれるのは友であり、仲間であり、人間関係。やっぱり人は一人では生きていけません。

「すべての問題は、対人関係である。」素晴らしい言葉だと思います。

さあ、台風一過ですが、今日も一日ゆるりと頑張りましょう。
posted by D.Tanaka at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2015年05月08日

休息日

体が悲鳴をあげているのだろうか。
夜勤明けに、4時間ほど時間が取れそうだったので、ボートを引っ張っていこうと準備していたら、やたらとボートが温かい。いや、熱い。太陽熱か?と思ったが、どうやら自分の体温が低いようです。道理で朝から会社の人に「そんなに着て暑くない?」って聞かれたわけだ。今日は温かいんですね。

体温調節が上手くいかなくなってきているのだろうか。

ということで、今日は休息日にします。といっても、夕方は仕事だし、夜は卓球なんですけど。。。

今回のGWは帰省していろいろな話や経験をしてきた。親族の事なので、詳しく書くことでもないと思うのですが、人の一生って儚いものだと感じました。そして、自分がしっかりと自分の人生は歩いて行かなければいけないということも。例えそれが、客観的に見て悪い結果だとしても、自分が選んだものであれば納得も行くだろうし、自分なりに意味づけが出来るのだから。

疲れていると、昔の事を思い出すことが多い。

今日は"車掌の本分"という物語を思い出した。先ほど調べて分かったんだが、自分は"おさるの車掌さん"という題名だと間違って覚えていた。人の記憶なんて宛にならないものだ。

この かんべむさし著の"車掌の本分"は、遊園地にある子供用の列車のさるの車掌と運転手が主人公のお話。

遊園地にさるの運転手と車掌が乗っている列車がありました。
列車が人気になり、列車を増設していきます。
円形の線路では、最後尾の車両のすぐ後ろに、先頭車両がくるという異様な形に。
すると、車掌がノイローゼになってしまいます。
「過労か?」と飼育員は話しますが、さるにとってはそれは大した問題ではありません。
さるにとっての問題は、運転手が前を行き、車掌が列車の安全を後ろから見守るという本分を尽くせなかったことだったんです。

ざっくり言えばこんな話である。

人が生きるということは、本分を尽くすという事と同義なのかもしれない。
もし、自分の余命が宣告されたら、僅かな延命を願うのか、尽くし切れていない本分を全うさせるのか。




答えはその時にならないと、見つからないんだろうな。
まだまだ、青いです。

posted by D.Tanaka at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2014年11月17日

すべては意味づけで決まる。

このタイトルは以前にも書いた気がするけど、年々それを実感するので改めて書いています。

目の前の出来事は、実際には何の意味もなく、淡々と流れている事実。けれど、それを見る側が、そのことに意味付けをし、その事実を評価するということ。

例えば、とある先生が居る。数年後の同窓会で「あの先生陰険だったよね?」という生徒と「その先生は爽やかだったよね?」という真逆の評価が出てくるというのはよくある話。

もっとわかりやすく言うなら、TVに出てくる芸能人。「あの人感じ悪いよね?」と「結構好きな感じだな。」という評価。これは見ている側が勝手に意味付けていることだ。つまり、その人(この場合は芸能人)の人格や性格、容姿などは、本当は何の意味も持たないものである。

自分という世界で生きている以上、その世界観は自分が作っているということです。ほかの人に影響を受けることがあったとしても、それを選択して生きているわけですから、すべての責任は自分が背負わなければいけないということです。責任というと重苦しいもののように感じられるかもしれないけど、実は責任のないところには、なんの喜びもなかったりします。なので、喜びのためのスパイスくらいに感じておいたほうがよいでしょう。

さて、ここは釣りブログなので、これを釣りで考えてみる。

先日のアメドリでの話だ。優勝は3600g/3匹で、5位が3000g/3匹くらいだったと思う。そこで私は「5位で3000って釣れてないなぁ・・・。」と思った。しかし、地元の人は「今回はけっこう釣れていたね!」と言っていた。つまり、私は釣れない状況だと思い、ほかの人は釣れている状況だと考えていたわけだ。もちろん、その“釣れている”というもの自体が大きな差があると思うけれど、釣りをする上でこの状況を見誤るというのは、すべてにおいて影響する。

今までなら、これは自分の経験の無さや実力の無さがそう感じていると思っていた。だから、スキルを上げたり、経験を積むことで、そういった感覚になれると思っていた。しかし、今は一緒になる必要はないと思っている。100人中99人が難しいと思っていても、釣ってくるたった一人は「イージーですよ!」なんてこともある。それに何の問題があるというのだろうか。例え本番で釣ってこられなくても、プラでイージーだったのであればそれで良いのではないかと。もちろん、本番への変化に対応できなかったということで言えば、決して釣りが上手いということにはならないと思う。しかし、嘘をついているわけではない。事実そうであったのならば。

他人の評価を元に生きるというのは、その評価を下す人の人生を生きるということらしい。つまり、他人の人生を生きているのです。それって無駄なことだと思いません?

「その人が居なかったら別の選択をする」とか。世の中にはその人と自分しかいないわけではないのですからね。それよりももっと大きなものに頼った判断をしたほうが良いと思うのです。

と、まあ、誰に向けて書いているわけではないのですが。

しいて言えば、自分に対してですかね。忘れないために記しておかなければ、すぐに忘れてしまう。

鳥頭だから。

posted by D.Tanaka at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学

2013年08月04日

センスは磨けるのか?

今日はPBT第三戦でした。結果は5位ということで、良くもなく、悪くもない。14組の中なので、悲観するほどでもないのですが、ウエイトが稼げる小野湖で、この結果は少々厳しいかもしれません。

今回の大会の優勝者はGUTS/佐々木ペアでした。詳しくは大会のレポートが出来てくると思いますが、今回の優勝ペアの戦略には脱帽でした。9時頃までは、船を並べて「釣れんね〜。」とかだべっていたのですから。

そこから、勝ちに行ける行動こそが、勝者と敗者の差だと思います。そして、これこそがセンスというものでしょう。悔しいけど、認めざるを得ません。あまり待ち上げると調子に乗るのでこれくらいにしておきます(笑)


今期の私は、見ての通りあまりパッとしません。クラシックでデコって、第一戦もデコ・・・。第二戦は5位、そして、今回も5位。

すべての大会で共通する敗因が行動力の無さでした。そして、判断力の悪さ。

物事が上手く運ぶ時は、何も考えなくても思い通りに進むように感じます。けれど、すべて自分が周りに作用しているのは間違いないので、すべてが他力本願ではいけません。PBTのペア戦のように、自分が釣らなくても、パートナーが釣ることで優勝することはあります。けれど、自分がそこに居なければ、そのパートナーは釣っていたかと言われれば、それはわかりません。すべての言動に起因したものがそこにはあるからです。

私は、それらを感じとる力がセンスというものではないかと思うようになって来ました。

ちょうど、先日ウナギを釣りに行った時も同じような事を感じました。

ウナギのエサに銀白というものがあって、これはウグイの子供です。これは釣具屋さんに売っています。私は「ウグイで良いのなら、カワムツでの良いでしょ。カワムツならすぐに釣れるし。」と言いました。そして、いざ釣り場について、ミミズで釣りを始めるとギギが釣れました。そして、カワムツも。すると、嫁が「カワムツ捌いて。」と言います。

私は、自分でそういったものの、生きているカワムツを裁くのは躊躇してしまいました。すると「何言ってんの?釣りに来て。ささっとする!!」そう急かされて、しぶしぶ捌きました。そして、その第一投目。投げ込んで数分で、ウナギが釣れたのです。

もし、私がもう少し躊躇していたら、結果は違ったのかもしれません。時合を逃していたかもしれません。

今回の大会でもパートナーの須藤君と「川が釣れているかもしれないね?」と、何度も会話していました。ならば、行けばよいのです。けれど、それはなかなか出来るものではないのです。

つまり、「出来る」と「する」は違うのです。そこに大きな隔たりがあるということです。

周りには成功のためのいろんなヒントが溢れています。それを読み取り、行動するのは自分です。最近の不本意な結果は、ここが欠如しているのだと、自己分析しています。けれど、どうやったら解決できるのでしょうか?

久しぶりに、落ち込み悩んでいます。でも、偶にはそんな時があっても良いですよね。悩める人生も嫌いではありませんから。
posted by D.Tanaka at 20:07| Comment(2) | TrackBack(0) | ダイスケ的心理学